京都町内会バンドについて
1997年秋、京都は同志社大学の卒業生&現役の音楽仲間で結成された、4人組ドラムレス・フォークバンドとしてスタート。
クリスチャン高校教師でフォークシンガーの原田博行(G&Vo)、介護福祉士でナマケモノLGBTQ+のL!なロックボーカリスト笹野みちる(Per&Vo)、主婦で母で天然ファンキーベーシスト有田さとこ(B&Vo)、滝行者でスピ系ヒーリングピアニストの村田聡(Pf)という、キャラも資質もてんでバラバラでユニークな4人が組み合わさったヘンなバンドとして25年活動を続けた。
インディーズレーベル「OBU RECORDS」からアルバム多数。年に1〜2回の東京と京都を中心とするライブツアーを行う。2022年にピアノの村田聡がバンドを抜け、現在は3人で活動。25周年を迎えて2022年の夏に京都・東京ツアー「次の四半世紀へ!」が予定されている。
原田は、笹野がメジャーシーンでドタバタしているあいだにも、地元京都にて地道な活動を続け、着実に自分のスタイルを築き上げてきていた。 促されるままになんとなく出演を承諾した笹野は、鬱、無気力のさなかではあったが、原田と共にライブ用の新曲を2曲も書いた。(それが、のちに京都町内会バンドのファーストアルバム『HIMAGINE』にも収録される『僕に捧げる歌』と『Sin』であった)
そのときのライブに、学生時代、笹野とおなじ軽音サークルに所属していた村田聡もいた。村田も数々の音楽武者修行を経て、あらゆるジャンルに対応できる器用なキーボーディストへと成長していた。原田、笹野、村田の3人を核としたアコースティックユニットの形がおぼろげに見えてきた頃、そのトリオを生かしたユニットでライブに出てみないかという誘いが音楽業界関係者からあり、急遽バンド名を自嘲気味に「京都町内会バンド」とする。
その後、多少サポートメンバーの変遷があったのち、97年夏、原田のソロライブにゲスト出演した有田さとこの才能に一目惚れした笹野は、俄然有田奪取へと意欲をみせる。村田の太鼓判も得て、原田と笹野によって河原町今出川セカンドハウスに拉致され詰め寄られた有田は、その頃まだ大学4年で卒業が危ぶまれていたにも関わらず、バンドメンバーとなることを快諾。(その後、無事98年に卒業)
こうして97年の秋からメンバーが4人に確定し、RD RECORDSからCDを出せることが決定し、ライブの本数も増えていった。
98年3月、1stアルバム『HIMAGINE』。98年10月、ライブ盤2ndアルバム『日常生活』。99年6月、3rdアルバム『かけぶとん』を発表。01年にはRD RECORDSから撤退し、完全自主レーベル「OBU RECORDS」を立ち上げ、プロデューサーにGLAYのサポートドラマーTOSHI NAGAI氏を迎えて、シングルコレクション風4thアルバム『スイスイ』を発表。
バンドの自立と成長に平行するかのように、笹野のウツ症状も快復に向かう。
一方ではこの頃、村田の潰瘍性大腸炎発病や、有田がメジャーシーンでのサポートが増えて売れっ子化してしまうなど、バンドとして数々の苦難の時期を迎えるが、見事に雨降って地固まり、より一層のまとまりを獲得し、’01年終わり頃からツアー形式で東京、京都、名古屋、神戸など集中的に密度の濃いライブを行うようになる。京都では主にライブハウス「拾得」を 中心に、東京では、吉祥寺「Star Pine’s Cafe」で毎回2daysライブを満杯にするようになる。
’02年7月、ホッピー神山プロデュースのミニアルバム「たこみたい ねこみたい」発売。’01年秋~’03年の2年間メンバー5人時代(Key井上正行)を経て、’03秋より再びメンバーは元の4人へ。’04春~夏にはライブビデオ「ひっくりかえそう!」、アルバム「4SPACE」を発売。その後も、八丈島でレコーディングした’08「輝く記憶」や、スターパインズカフェでの完全ライブ盤’14「C&R」、最新作の’17「そんなつもり」と、贅沢なほどマイペース&生真面目かつ正直に、バンドの足跡を残し続けてきた。
2017年、京都町内会バンドは結成20周年を迎え、記念イベントを成功させる。その後、コロナの影響で、バンドでの活動ができない時期を経て、25周年のライブツアーを企画するミーティングにおいて、村田聡からバンド脱退の意向が伝えられる。
メンバー各自のリアルな生き様をバンドに反映させ影響を与え合いながら、歩んだ25年に一つの節をつけて、3人で次の四半世紀へ向かうことを決定する。ライクアローリングストーンなバンド史はまだまだ続く。